以前読んだ漫画版の記憶を抱えながら映画館を出た後、しばらく言葉にならない感情が胸の中で渦巻いていた。
小宮くんを見ていて思った。彼は周囲の同調圧力に屈しない。常に自分の心に問い続ける。その姿勢が、スクリーンを通して真っ直ぐに突き刺さってくる。「みんながそうしているから」「これが普通だから」という言葉に飲み込まれそうになる日常の中で、彼は静かに、でも確実に自分の声を聞き続けている。
海堂の言う「現実から逃げる」という言葉も印象的だった。普通、現実から逃げるというとネガティブな響きを持つ。でも彼にとってのそれは違う。現実をしっかりと見つめた上で、その状況を糧にしながら、自分自身の実力については現実よりも高みを想定して動く。逃げているようで、実は誰よりも現実と向き合っている。この逆説的な強さに、僕は深く共感した。
僕の中にも二人の自分がいる。
一人は「才能なんてない」と冷たく言い放つ。周りもそう言う。現実的で、大人びていて、リスクを避ける自分。
でももう一人は「いや、まだいける」と囁く。根拠なんてない。でも諦めきれない何かを抱えている自分。
この二人目の自分を表に出すと、人は「まだまだ子供だな」「若いな」と揶揄する。でも僕は思う。この二人の自分を死ぬまで持ち続けたい。苦しいし、きついのは分かっている。それでも。
大谷翔平や藤井聡太を見ていても感じることがある。本当の一流は「合理化」を超えている。むしろその下の層が合理化という名の下に脱落していく。いや、自ら降りていくと言った方が正確かもしれない。それを世間は「大人になる」と呼ぶ。
安心も大事だ。それは分かっている。でも、合理化によって得られる安心なんて、僕は欲しくない。
『ひゃくえむ』を観て改めて思った。非合理的でも、子供じみていても、自分の中の「まだいける」という声を殺したくない。
小宮くんと海堂が教えてくれたのは、その声こそが、自分を自分たらしめる最後の砦なのかもしれないということだ。
心が震えたのは、きっと、僕の中のその声が共鳴したからだと思う。